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人を探すという行為は、意外と日常的ではない。
僕は幼い頃、よく両親とはぐれたものだ。母親の手を勝手に離し、ふらつき、ショッピングモールで名前をアナウンスされたことなど数えきれない。はぐれるのにも慣れたもので、親が見当たらなくなると、自分の方から店員にアナウンスを頼むことも少なくなかった。はぐれ癖は変わらないので、大人になってもよく友人とはぐれる。
妹は逆だった。はぐれるのを嫌って、いつも母親のそばを離れず、うっかりはぐれた時には大声で泣き喚いた。おかげですぐに見つけられたものだ。僕には理解できない、妹の性質だった。
それでも大人になってからは、やっぱり僕も妹も、親に探されることはなくなった。互いに互いを探すことなんて、尚更だ。一緒に出かけることがそもそもないし、連絡はいつでも何かしらでとれる。
その妹が、行方不明になって、半年経つ。
世の中の“捜索願”は、どれくらい連絡が取れない期間が続いてから出されるものなのだろうか。僕はわからなかったので、半年経ってようやく、そういえば捜索願を出せば良いのかもしれないと思い至った。思い至ったものの、まだ出していない。
だって、明日にはなんでもない顔をして帰ってくるかもしれないのに、捜索願なんて出せない。
自分で探したのかと聞かれると、一応探しはしたが、あまり自信を持って頷けるほどは探していない。妹の行方を探すアテなど、そう多くはない。そもそも、人を探すのに慣れていない。はぐれ癖がある僕は、探されるのには慣れていたけれど、人を探すのには慣れていない。
人を探すという行為は、意外と日常的ではない。
妹はまだ帰らない。連絡はもちろんつかない。僕は散歩の代わりに妹を探すけれど、はぐれる方が得意な僕は、妹を見つけることができない。ひょっとしたら、妹の方がはぐれるのが得意だったのかもしれないな、と思う。