2/12
人間、人生を振り返れば、狂い始めたターニングポイントというのが、間違いなく2・3はあるはずだ。自分にもある。決して劇的な瞬間ではなく、地味に、かつ避けようが無い何か。擬音で表すなら「ぼとり」という感じ。鮮やかな記憶ではないが、忘れられないもの。
そういう、日常に限りなく近いところにあって、それでいてあっさりと人の生を左右してしまうような、ほんの一瞬を書いてみたい。じわりと蝕むような一言に、数秒だけ言葉詰まるその一瞬を、何行でもかけて表してみたい。人は簡単に変わらないけれど、それでもその人が、何かの拍子に、例えば何かの匂いをトリガーに、フラッシュバックして鳴り止まない一言になるような、そんなワンシーン。
そういう、「狂いの踏み外し始め」みたいなものと、それを思い出してしみじみ語るところが、とにかく好きだ。そういうものを書いて、そういうものだけを書いて、ただ書くだけで一生を終えたいくらい。
こんな風に自分が狂い始めたターニングポイントも、そういえばあったな、と、ふと思った。
2/11
2/9
床に伏せている間、随分長く眠ったので、たくさん夢を見ることができた。他にできることもなかったので、良い暇つぶしになった。
悪魔も良い夢も半々ほど見たが、案の定内容はほとんど覚えていない。体調不良の時に見る悪夢は独特だ。恐怖で飛び起きたこともあったが、しかし忘れてしまえば、ただのいっときのエンターテイメントだ。
今回は懐かしい人に会う夢も見た。とても良い夢だったと思う。どんな会話をしたかはまるで覚えていないけれど、相手が笑顔だったことだけは記憶に残っている。それだけで、最高の夢だ。
会えるはずのない人に会えるという点においても、やはり眠りは限りなく死に近い行為だ。時間や日付の感覚がなくなるほど、睡眠と覚醒を繰り返した頃、私はある種のトランス状態に入っていたと思う。無意識と有意識の間で、見たい夢の続きを見る、そんな夢を見た記憶がある。
病状が快方に向かうにつれて、睡眠時間も夢を見ることも減っていき、全ての夢の記憶も曖昧になった。明日からはいつも通りの生活が始まる。やはり何事もほどほどが一番だ。
この一週間ほど、生産性のない日々を過ごしてしまったが、悪くない体験をできた。もう会えない人々に長い別れを告げ、また夢のない日常に戻ることにする。
2/8
「ねえ、パネラーマンって知ってる?」
「なにそれ、芸人の名前?」
「違う違う。最近話題になってる怖い話!」
「怖い話? なんか、全然怖くなさそう」
「うちの学校の近所の団地、一区画だけ空き地になってるでしょ? あそこにね、出たんだって」
「出たって……その、パネラーマン?」
「そう! 2組の米山がずーっと休んでるのも、そのせいなんだって。見ちゃったんだって!」
「米山の休みはどうせコロナでしょ……てか、そのパネラーマンってなんなの?」
「なんかね、パネラーマン自体を見た人は居ないんだけど、神出鬼没で、いろんなところにパネルを置いていくんだって」
「パネル?」
「等身大パネルってあるじゃん? アレ」
「なんの等身大パネル?」
「わかんない。なんか、普通の人。その辺のスーパーのレジ打ちのおばちゃんとか、大学生とか」
「なんじゃそら」
「でね、一人でいる時にそのパネルに触っちゃうと、今度はその人がパネルになるんだって」
「はあ……パネルに?」
「そう! それでパネラーマンに連れてかれちゃうんだよ」
「なんか……しょーもなくない?」
「えー! 怖いじゃん。パネルになったらなんもできないんだよ?」
「いやあ……てか、作り話のレベル低いよ。何? 米山もパネルになったってこと?」
「そうだよ絶対」
「あほくさ……アンタもいい加減そういうの卒業しなよ」
「えー! 全然信じてないじゃん! 怖くない?」
「信じるわけないし怖くもないわ」
そう話したのが先週。今、私はくだんの団地にいる。クラスメイトが欠席したので、手紙を届けに来たのだ。
そいつの部屋は三階らしい。階段を使い、上っていく。老朽化が進む古い建物は、上は六階まであるようだが、エレベーターはない。階段を上りながら、沈みかけた夕日を見る。やけに、赤い。
部屋の前まで来て、呼び鈴を鳴らす。誰も出ない。本人は寝込んでいるとして、家の人は仕事なのだろうか。仕方なく、扉についた郵便口から、封筒を入れた。
踵を返して階段を下りる。ふと外に目を向けると、下に広がっていたのは空き地だった。階段の作りが螺旋状になっているため、来る時は見えなかったのだろう。
空き地の真ん中に、何かある。一瞬人かと思うが、やけに薄い。ゴミだろうか? それにしては大きい。人はどの大きさの段ボールが、自立している。
パネルだ。
気付いた瞬間、ドッと冷や汗が流れた。目を逸らさなければと思うのに、身体が動かない。いや、違う。足が勝手に階段を下りる。向かっている。近づいていく。と、その瞬間。
視界の端に誰かが映った。
女子だ。空き地にふらりと入ってくる、同じ制服の誰か。知っている。あの子が誰か知っている。止めなければ。そう思うのに、今は足が動かない。彼女はおぼつかない足取りで、パネルに近づく。その手が伸びる。触れてはならない。声が出ない。流れる汗の感覚。指先が、パネルに届く。
私は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。何も見ていない。私は何も知らない。呼吸が荒い。早く帰らなければ。だけど、どうやって? 帰る道すがら、あの空き地にふたつ並んだパネルを見て、どうやって帰ればいい?
日が沈む。遠くで、最終下校のチャイムが鳴っている。
2/1
1/30
全く記憶はないが、腕に大きな青痣ができていた。右手の、肘と手首のちょうど間あたり、内側。大きいと言っても直径は四センチほどで、ぱっと見は目立たない。薄い靄のようなそれに、風呂に入るときに気付いて、しかしあまり気にすることは無かった。
翌日か、翌々日か、ふと見ると痣が濃くなっていた。インクの滲みのようなそれは、どこか人の顔のようにも見える。少し気味が悪かった。触ると痛みはなく、ただ皮膚に指が沈むだけだ。どれだけ考えても原因を思い出すことはできなかった。やはり気にしないことにして、服を着る。幸いというべきか、季節は長袖の頃あいだ。放っておけば治るだろう。
そうして数日経った。毎晩、青痣を見た。しばらくは変わらず人面のようで気持ちが悪かったが、だんだんと周辺から黄色く変色し始めて、今ではほとんど目立たない黄ばみのようになっている。不思議なことだが、痣が消えていくのと反比例するように、その原因の記憶が蘇ってきた。
はじめは、痛みがないのを妙に思ったのがきっかけだった。
そういえばこれは、打ちみでできたものではない気がする。そもそも腕の内側をぶつけることなんて、そうそうない。けれど打ちみ以外に青痣ができる理由なんて、思いつかない。
自分でぶつけたのではないなら、他人につけられたものなのではないか。
そう思い始めると、そんな気がしてきた。尚の事記憶にないのが奇妙だが、自らぶつけて作ったものではないことは、確信できた。
他人につけられたとして、腕の内側に青痣を作るような状況が、あるだろうか。
例えば腕を、内側を上にして机に置いて、誰かがその上に何かを落とす。無い話ではない。けれどそんなことがあったら、覚えているはずだ。どんな経緯で、誰に、どこでされたのか、何も覚えていないなどということがあるだろうか。
しかしそこまで考えて、自分が自ら腕を差し出したような、それは確かにそうだったような、切り取られたワンシーンが蘇った。右の腕を、内側を上にして、机に置いた。
もしかすると、思い込みがすぎて記憶を改竄してしまったかもしれない。だっていくら考えてもおかしな話だ。
けれど確かにそうだった。間違いない。この痛みのない青痣は、自ら出した腕に、他人によってつけられた。
そうだ。これは打ちみなどではない。この青痣は、正しくは、内出血と呼ばれるものだ。ぶつけてできた内出血ではない。皮膚の中で出血している。
外傷も無く、強打したわけでも無く、皮膚内で出血することなど、そうそうない。外面上無傷のまま、血管だけを傷つける手段など。
……注射?
見ると青痣は消えていた。青痣? 何の変哲もない自分の腕だ。今自分は、一体何を確認しようとしたのだろうか。手首を眺めるようにして、時計もつけていないのに、どうしてこんなことを?
疲れているのかもしれない。風呂に入って、早く寝よう。明日もいつもと変わらない朝が来る。
翌朝。
全く記憶はないが、腕に大きな青痣ができていた。
1/28
今日は何か小説を書こうと思っていたのだが、完全に何を書くつもりだったのか忘れたので、最近思いついた書きたい台詞を羅列しておくことにする。
「この世界を、楽園にしよう。見たいものだけ、聞きたい音だけ、生きていて欲しい人だけの楽園に」
「看板が違う。ここはどこだ。お前は誰だ」
「通りすがりの彼女の、甘い香水の匂いを肴に、酒を飲み干した」
「朝はいつも夜の延長だから、明ける夜なんてないんだ」
「聞き覚えのある声でした。」
「けれど生み落とされたことに理由などない。僕が兄ではなく、兄が僕ではないことに、理由などないのだから」
「献血、蕎麦、展望台」
「嘘偽りのない言葉だけで構わない。それ以外の全てを撃ち壊せ」
「ぼくはファミコンが好きだった。」
「綺麗なものは壊れる時が一番綺麗」
「埋葬なんて絶対御免だね」