2/12

人間、人生を振り返れば、狂い始めたターニングポイントというのが、間違いなく2・3はあるはずだ。自分にもある。決して劇的な瞬間ではなく、地味に、かつ避けようが無い何か。擬音で表すなら「ぼとり」という感じ。鮮やかな記憶ではないが、忘れられないもの。

そういう、日常に限りなく近いところにあって、それでいてあっさりと人の生を左右してしまうような、ほんの一瞬を書いてみたい。じわりと蝕むような一言に、数秒だけ言葉詰まるその一瞬を、何行でもかけて表してみたい。人は簡単に変わらないけれど、それでもその人が、何かの拍子に、例えば何かの匂いをトリガーに、フラッシュバックして鳴り止まない一言になるような、そんなワンシーン。

そういう、「狂いの踏み外し始め」みたいなものと、それを思い出してしみじみ語るところが、とにかく好きだ。そういうものを書いて、そういうものだけを書いて、ただ書くだけで一生を終えたいくらい。

こんな風に自分が狂い始めたターニングポイントも、そういえばあったな、と、ふと思った。

2/11

異世界転生チート主人公、なんて少し前は半分ネタのように言われていたが、今や歴史ある一大ジャンルだ。
私も全く、馬鹿にする気は毛頭ない。そもそも、物語を通して主人公が成長する方がファンタジーだ。人はそう簡単に変わらない。元から持っている知識や技量以上に何かを獲得するのは、とても困難だ。ひとつやふたつ、物語を経るだけでは、不可能なことの方が多い。
だから世界の方を変える。ごく正当な判断だ。物語において、世界を変えるのなんか、赤子の手を捻るようなものだから。
主人公は変わらない。成長も退化も、劇的な変化は何一つない。何故なら主人公は、より多くの人に自己投影されるべき存在だからだ。変わるのは世界と、周りの人間だけ。それでいい。そんな物語が受け入れられる世の中は、正しくてわかりやすい。
とはいえ、やはりもし自分が物語の主人公になるなら、びっくりするような超能力を手にしてみたいと思う。いや、びっくりするようなものではなくてもいい。今の自分にない力なら、なんだって構わない。大いなる力には大いなる責任が伴う。責任を負うのは恐ろしい。ちょっとした能力か──否。やはり自分に主人公は荷が重い。地の文くらいが丁度いい。主人公にも世界にも無関係な、観測者が一番、性に合っている。トラックにぶつかって転生しても、地の文でいたいなと思う。

2/9

床に伏せている間、随分長く眠ったので、たくさん夢を見ることができた。他にできることもなかったので、良い暇つぶしになった。

悪魔も良い夢も半々ほど見たが、案の定内容はほとんど覚えていない。体調不良の時に見る悪夢は独特だ。恐怖で飛び起きたこともあったが、しかし忘れてしまえば、ただのいっときのエンターテイメントだ。

今回は懐かしい人に会う夢も見た。とても良い夢だったと思う。どんな会話をしたかはまるで覚えていないけれど、相手が笑顔だったことだけは記憶に残っている。それだけで、最高の夢だ。

会えるはずのない人に会えるという点においても、やはり眠りは限りなく死に近い行為だ。時間や日付の感覚がなくなるほど、睡眠と覚醒を繰り返した頃、私はある種のトランス状態に入っていたと思う。無意識と有意識の間で、見たい夢の続きを見る、そんな夢を見た記憶がある。

病状が快方に向かうにつれて、睡眠時間も夢を見ることも減っていき、全ての夢の記憶も曖昧になった。明日からはいつも通りの生活が始まる。やはり何事もほどほどが一番だ。

この一週間ほど、生産性のない日々を過ごしてしまったが、悪くない体験をできた。もう会えない人々に長い別れを告げ、また夢のない日常に戻ることにする。

2/8

「ねえ、パネラーマンって知ってる?」

「なにそれ、芸人の名前?」

「違う違う。最近話題になってる怖い話!」

「怖い話? なんか、全然怖くなさそう」

「うちの学校の近所の団地、一区画だけ空き地になってるでしょ? あそこにね、出たんだって」

「出たって……その、パネラーマン?」

「そう! 2組の米山がずーっと休んでるのも、そのせいなんだって。見ちゃったんだって!」

「米山の休みはどうせコロナでしょ……てか、そのパネラーマンってなんなの?」

「なんかね、パネラーマン自体を見た人は居ないんだけど、神出鬼没で、いろんなところにパネルを置いていくんだって」

「パネル?」

等身大パネルってあるじゃん? アレ」

「なんの等身大パネル?」

「わかんない。なんか、普通の人。その辺のスーパーのレジ打ちのおばちゃんとか、大学生とか」

「なんじゃそら」

「でね、一人でいる時にそのパネルに触っちゃうと、今度はその人がパネルになるんだって」

「はあ……パネルに?」

「そう! それでパネラーマンに連れてかれちゃうんだよ」

「なんか……しょーもなくない?」

「えー! 怖いじゃん。パネルになったらなんもできないんだよ?」

「いやあ……てか、作り話のレベル低いよ。何? 米山もパネルになったってこと?」

「そうだよ絶対」

「あほくさ……アンタもいい加減そういうの卒業しなよ」

「えー! 全然信じてないじゃん! 怖くない?」

「信じるわけないし怖くもないわ」


そう話したのが先週。今、私はくだんの団地にいる。クラスメイトが欠席したので、手紙を届けに来たのだ。

そいつの部屋は三階らしい。階段を使い、上っていく。老朽化が進む古い建物は、上は六階まであるようだが、エレベーターはない。階段を上りながら、沈みかけた夕日を見る。やけに、赤い。

部屋の前まで来て、呼び鈴を鳴らす。誰も出ない。本人は寝込んでいるとして、家の人は仕事なのだろうか。仕方なく、扉についた郵便口から、封筒を入れた。

踵を返して階段を下りる。ふと外に目を向けると、下に広がっていたのは空き地だった。階段の作りが螺旋状になっているため、来る時は見えなかったのだろう。

空き地の真ん中に、何かある。一瞬人かと思うが、やけに薄い。ゴミだろうか? それにしては大きい。人はどの大きさの段ボールが、自立している。

パネルだ。

気付いた瞬間、ドッと冷や汗が流れた。目を逸らさなければと思うのに、身体が動かない。いや、違う。足が勝手に階段を下りる。向かっている。近づいていく。と、その瞬間。

視界の端に誰かが映った。

女子だ。空き地にふらりと入ってくる、同じ制服の誰か。知っている。あの子が誰か知っている。止めなければ。そう思うのに、今は足が動かない。彼女はおぼつかない足取りで、パネルに近づく。その手が伸びる。触れてはならない。声が出ない。流れる汗の感覚。指先が、パネルに届く。

私は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。何も見ていない。私は何も知らない。呼吸が荒い。早く帰らなければ。だけど、どうやって? 帰る道すがら、あの空き地にふたつ並んだパネルを見て、どうやって帰ればいい?

日が沈む。遠くで、最終下校のチャイムが鳴っている。

2/1

ここ数年、あまり夢を見ることがなかった。学生時代はそこそこ寝ていたのでいくらか見ていたが、短い時間で深く眠るようになって、すっかりご無沙汰という感じだった。
ある時、ふと気付いた。意図的に眠りを浅くすれば、夢が見られるのではないか。
入眠から3時間か4時間後あたりで、小さめの音量の目覚ましをかける。覚醒と眠りの狭間でそれを止める。止めた記憶もあやふやなまま、また眠る。スヌーズ機能で30分おきに目覚ましを鳴らす。3、4回それを止めたあたりで、アラームが鳴って、完全に目を覚ます。
これが効果てきめんで、おかげさまで簡単に夢を見ることができるようになった。ただし、夢は上書きされがちなので、目を覚ました時に覚えているのは最後の夢だけのことが多い。夢日記をつけるのはさすがに面倒なので、まだしていない。また、この方法で見た夢はかなり現実感が強いことが多い。起床直後は特に、夢とリアルの境目が曖昧になる。本音を言えばファンタジー感の強い夢が見たいのだが、これは特殊な条件が揃った時、例えばちょうどいい具合に泥酔した上で耳慣れない環境音がある状況とか、そういう場面でしか見られたことがない。もう少し研究が必要だ。
なおこの手法、普通に眠りの質が悪いので、ロングスリーパーには全くお勧めしない。あと連日行うとだんだん上手くいかなくなりがちだ。
眠りは楽しくほどほどに。

1/30

全く記憶はないが、腕に大きな青痣ができていた。右手の、肘と手首のちょうど間あたり、内側。大きいと言っても直径は四センチほどで、ぱっと見は目立たない。薄い靄のようなそれに、風呂に入るときに気付いて、しかしあまり気にすることは無かった。

翌日か、翌々日か、ふと見ると痣が濃くなっていた。インクの滲みのようなそれは、どこか人の顔のようにも見える。少し気味が悪かった。触ると痛みはなく、ただ皮膚に指が沈むだけだ。どれだけ考えても原因を思い出すことはできなかった。やはり気にしないことにして、服を着る。幸いというべきか、季節は長袖の頃あいだ。放っておけば治るだろう。

そうして数日経った。毎晩、青痣を見た。しばらくは変わらず人面のようで気持ちが悪かったが、だんだんと周辺から黄色く変色し始めて、今ではほとんど目立たない黄ばみのようになっている。不思議なことだが、痣が消えていくのと反比例するように、その原因の記憶が蘇ってきた。

はじめは、痛みがないのを妙に思ったのがきっかけだった。

そういえばこれは、打ちみでできたものではない気がする。そもそも腕の内側をぶつけることなんて、そうそうない。けれど打ちみ以外に青痣ができる理由なんて、思いつかない。

自分でぶつけたのではないなら、他人につけられたものなのではないか。

そう思い始めると、そんな気がしてきた。尚の事記憶にないのが奇妙だが、自らぶつけて作ったものではないことは、確信できた。

他人につけられたとして、腕の内側に青痣を作るような状況が、あるだろうか。

例えば腕を、内側を上にして机に置いて、誰かがその上に何かを落とす。無い話ではない。けれどそんなことがあったら、覚えているはずだ。どんな経緯で、誰に、どこでされたのか、何も覚えていないなどということがあるだろうか。

しかしそこまで考えて、自分が自ら腕を差し出したような、それは確かにそうだったような、切り取られたワンシーンが蘇った。右の腕を、内側を上にして、机に置いた。

もしかすると、思い込みがすぎて記憶を改竄してしまったかもしれない。だっていくら考えてもおかしな話だ。

けれど確かにそうだった。間違いない。この痛みのない青痣は、自ら出した腕に、他人によってつけられた。

そうだ。これは打ちみなどではない。この青痣は、正しくは、内出血と呼ばれるものだ。ぶつけてできた内出血ではない。皮膚の中で出血している。

外傷も無く、強打したわけでも無く、皮膚内で出血することなど、そうそうない。外面上無傷のまま、血管だけを傷つける手段など。

……注射?


見ると青痣は消えていた。青痣? 何の変哲もない自分の腕だ。今自分は、一体何を確認しようとしたのだろうか。手首を眺めるようにして、時計もつけていないのに、どうしてこんなことを?

疲れているのかもしれない。風呂に入って、早く寝よう。明日もいつもと変わらない朝が来る。


翌朝。

全く記憶はないが、腕に大きな青痣ができていた。

1/28

今日は何か小説を書こうと思っていたのだが、完全に何を書くつもりだったのか忘れたので、最近思いついた書きたい台詞を羅列しておくことにする。


「この世界を、楽園にしよう。見たいものだけ、聞きたい音だけ、生きていて欲しい人だけの楽園に」

「看板が違う。ここはどこだ。お前は誰だ」

「通りすがりの彼女の、甘い香水の匂いを肴に、酒を飲み干した」

「朝はいつも夜の延長だから、明ける夜なんてないんだ」

「聞き覚えのある声でした。」

「けれど生み落とされたことに理由などない。僕が兄ではなく、兄が僕ではないことに、理由などないのだから」

献血、蕎麦、展望台」

「嘘偽りのない言葉だけで構わない。それ以外の全てを撃ち壊せ」

「ぼくはファミコンが好きだった。」

「綺麗なものは壊れる時が一番綺麗」

「埋葬なんて絶対御免だね」