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手紙を書いた。特定の誰かに向けて文字を連ねたのは、久しぶりな気がした。苦ではないが好きではない。字が汚いからだ。やはり手紙は貰うに限る。

書き文字に性格が表れると信じたことはないが、文章には為人が出ると信じて生きてきた。言葉は全てに先行する。行為も感情も、身体的変化は言語の成れの果てだ。だから人は動物に戻れない。

そんなわけで、物を書くときはいつも、頭の中でプリミティブな「言葉」を繋げて、文章みたいな形にしている。漫画を描く友人にこれを伝えたところ、酷く驚かれたのを覚えている。彼女によると、漫画は、あるいはイラストは、映画監督かカメラマンのような視点で描いているらしい。上手いわけだ。そしてまたそれ故に、小説というのは映像を言語化していると思っていたらしい。自分の頭の中に映像はない。強いて言えば、単語の印象がある。説明したが理解されなかった。他人と意識を共有することは、人類には高度すぎる。

手紙も、頭の中の映像を言語化して書く、という人も、いるのかもしれない。今日ふとそう思った。貰った手紙を読み返してみる。なるほど、さっぱりわからない。ひょっとして、文章に為人が出るというのは、嘘かもしれない。

となれば、書き文字に性格が表れるという方は、本当かもしれない。小説なんか書いていないで、習字教室に通えば良かった。

手紙というのは、書いた方はすぐに忘れるが、貰った方は意外と覚えている稀有な代物だ。読み返して、結構覚えていたので、驚いた。久しく手紙など貰っていないが、そういえば昔は、手紙が欲しくて手紙を書いていた気がする。

自分だけに向けられた言葉というのは、何物にも代え難い。文通とかしてみたいな、と一瞬思ったが、すぐに文字書くの面倒くさいなと思ってしまったので、やはり手紙は貰うに限る。