1/27
メタ系のネタが好きだ。作品の中のキャラクターが、直接こちらに語りかけてくるようなものが、特に好きだ。第四の壁を壊して好き勝手するキャラやストーリーが、大好きだ。
メタ嫌いの友人がいる。曰く、「ムカつく」のだそうだ。そいつは自分の世界の神が自分だと思っていて、所謂主人公タイプだから、メタ嫌いも頷ける。
主人公タイプの人間が好きだ。自分こそが物語の中心だと自覚している人間が、特に好きだ。どんな時でも主役として、生の舞台の真ん中に立ち続ける人間が、大好きだ。
自分自身はというと、主人公になんか絶対になりたくなくて、できることなら他人の人生の地の文で居続けたいと思っている。つまり、他人のメタ的存在だ。マウントが取りたいわけではない。ただ誰かの物語を、草葉の陰から見守りたい。出来るだけたくさん。この世界には、主人公があまりにも多い。全ての語り部になりたいのに、命は短すぎるし、眼球は少なすぎる。
早くメタ的存在そのものになりたい。
1/26
目覚めると異形の怪物に変わっていた、というのは便利で素敵な導入だ。良いものは長く使われる。異世界転生だって、これのマイナーチェンジの一つだと思う。
しかしよくよく考えると、虫や化け物になっていなくとも、寝る前のモノと起きた時のモノが同じなんて保証はどこにもない。込み入った話をすると、テセウスの舟のような思考実験に向かいそうなので、ここでは控えるが。そうでなくなって、私たちはもっと眠る前に怯えてもおかしくないのではないか。自ら意識を失うという行為を、理性はそう簡単に許してはならないのではないだろうか。
寝ることは死ぬことだ。夜毎明日の再生を疑うこともなく自死を選ぶのは、愚かで美しい。必ず醒めると信じて見る夢は甘美だ。
人並みに生を楽しんでいるので、寝る前最後に見るものは少しだけ意識している。別に特別なものを見ようとするわけではない。薄暗がりで最後に目に入ったものを、「それ」であると、ただ思うだけ。本棚に並んだ文庫本とコミックスの段差。枕元の加湿器の煙。祖父にもらった油絵。馬のぬいぐるみ。付けっぱなしのゲーミングPCの七色の光。フィギュアの影。年季の入ったマグカップ。……どれが最期に視界を埋めたものだとしても、一つも悔いなどない。
死ぬのと異形になるのと、普通はどちらを怖がるものだろう。ちょうど良い議題を見つけたので、私は少し喜んだ。しばらくは退屈せずに済む。
願わくば、明日目が覚めたら、サラブレッドとかになっていたらいいのに。
1/25
1/24
1/23
1/22
簡単に人って死ぬんだろうなあと、日々思いながら生きている。
具体的にどう簡単なのかはわからない。だけどきっと、たぶん、とても簡単に、人は死ぬんだろう。
天気予報みたいに、《明日の死ぬ確率は20%》とか、毎晩ラジオで聞けたらおもしろいだろうなと考える。
おもしろくないか、と思い直す。
今日死ぬ確率20%だな、と思いながら過ごす一日は、恐らく最悪だ。
死ぬのが簡単なのと同じくらい、生きるのは簡単だ。
ひょっとしたら、生きる方が簡単かもしれない。生きやすくはないが。
予報も、生存確率で出す方がいいだろう。《明日生き延びる確率は90%です》。実に信用ならない数字だ。
やっぱり明日死ぬと思いながら生きるくらいが、ちょうどいいのだろう。
1/21
ここにきて漸く気付いたのだが、日記を書くのが酷く苦手だ。
出来事を書き留めて忘れないようにする、ということが嫌いだ。全部忘れて真っ新な状態で生きてみたい。そもそも今日のことを思い出したくない。終わったことを考えて、記憶を整理することに、喜びを感じない。
それなのに、あるいはそれ故に、昔の事ばかり思い出して懐かしんで、あの頃に戻りたいと思っている。見たことのない景色を、聞いたことのない音を、感じたことのない感情を、初めて身に受けた瞬間ばかり覚えている。そんな自分が哀れで腹立たしい。
人生がゲームだったら。きっと「1日目」の終わり、セーブをせずに電源を落とす。翌朝目覚めてまた1日目を過ごして、夜になって、ロードが挟まる直前にまた、セーブをせずに電源を落とす。
何故現実はオートセーブなんだろうか……。